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森見登美彦作:『夜行』の感想・考察

森見登美彦先生の著作、『夜行』を先日読み終えたので感想と考察を少しだけ書いていこうと思う。

本作は大変謎が多い。明確な答えを描かないことによって、読者に想像の余地を多く残し、委ねている作品だ。

その謎の1つ1つに対する自分の解釈を書いてしまうと大変な長さになってしまうし、そもそも解釈を持つに至っていないものも多いので、ここではこの作品を読んで僕が感じたメッセージ性について書いていきたいと思う。

 

 

長谷川と再会できなかった岸田は、彼女を作品の中に描く

岸田が『夜行』を制作する世界線と『曙光』を制作する世界線が存在するわけだが、その分岐点はどこだろうか?

これは本文でも明示されているように、長谷川との出会いだろう。

尾道での朝に長谷川と挨拶を交わしたから、そして火祭の夜に長谷川に声をかけることができたから、岸田は長谷川と結婚をすることができ、旅を通じて『曙光』を描いていくことができたのだ。

では、尾道の朝と火祭の夜に長谷川と出会うことが出来なかったなら?

『夜行』を制作した方の世界線の岸田が田辺と会話をするシーンで、長谷川の失踪の話をする中で、岸田の「あの夜には僕も鞍馬へ行ったんだ。あとで新聞で読んで驚いた」というセリフがある。

もしかしたら、こちらの世界の岸田も過去に尾道の美術館で長谷川と出会っていたのではないか?そして新聞を読んだ際に、そこに掲載されていた見覚えのある女性の顔写真と行方不明の文字を見たことで驚いたのではないか?こちらの世界の岸田は1度しか長谷川とは出会っていないが、それでも彼女に強く惹かれていたのでは?

そう考えたら、岸田が描いた『夜行』に描かれている女性は長谷川なのではないかと思えた。長谷川のことを頭に思い浮かべながら、日本の各地を彼女と旅する夢を見て、それを銅版画という形式で作品にしていった。そして最後にはその絵のゴーストによって殺害(絵の中に連れていかれた?)されてしまった。そういう物語だという風に僕は解釈をした。

この場合、岸田は妄執という形容がぴったりなような、並外れた狂気を持ち合わせた人物になってしまうが、それもまた1つの解釈としてありだろう。

 

 

夜行と曙光。夜と朝。夜の気分と朝の気分。

先にも書いていることだが、岸田が作った銅版画には『夜行』と『曙光』という2種類の作品群が存在する。

『夜行』は岸田が夜に暗室の中で制作した作品群だ。これらの作品群は暗い雰囲気の作風となっており、また小説内の人物は『夜行』を見たのちに不穏な物語を紡いでいくことになる。

それに対して『曙光』は岸田が妻の長谷川と共に朝を追いかけて旅をしながら描いた作品群である。

夜に制作した『夜行』は暗い作品群となっていること。そして朝を追いかけながら制作した『曙光』は明るい作品群となっていること。

これは、夜に制作した創作物は暗くなりやすく、日中に制作した創作物は明るくなりやすいというようなことを伝える表現のように思えた。

「夜は悪魔の支配する時間だから原稿を書いてはいけない。もし夜に原稿を書くことを余儀なくされた場合は、後で日中に読み直してみること。」というような神学者の言葉があるが、それを思い出した。

夜の暗室。その暗闇の中で岸田の負の側面が色濃く出て、そして生まれたのが『夜行』だったのではないかと思う。

 

おわりに

夜行を読むのは夜にしよう。そう思って毎晩寝る前に1章ずつ、計5日間で読み終えた。

本書を読んだ後にトイレに行って用を足してから寝るのがその数日間の習慣だった。

怪談を読んだ後の独特の警戒心を持ちながら自室と廊下を往復する。

いるはずもないのに、洗面所の暗がりに女性がいそうな気がしてくる。

そう思った時、僕も夜行の世界と繋がっていたと言えるのかもしれない。

「夜はどこにでも通じている」と、誰かが言っていた。