小説『老人と海』の感想
僕はヨルシカの音楽が好きでしばしば聴いている。
そのヨルシカの曲に『老人と海』という曲があるのだが、この曲はヘミングウェイの同名の小説から着想を得てつくられたものらしい。
そういった関係性のもと、2021年11月から小説『老人と海』がヨルシカとのコラボカバーで発売されている。
また、『老人と海』と同様の経緯で『風の又三郎』もコラボカバーを纏って発売されている。どちらとも2022年3月末までの配本ということで、気になる方は早めに手に入れておくことをお勧めする。
さて、今回もまた本を読んだ感想をぼちぼちと書いていきたいと思う。
あらすじ
サンチアゴは以前は村で最強の腕っぷしを誇る漁師だった。腕相撲をすれば誰にも負けず、それは自分よりも体の大きな人間が相手でもそうだった。
そんなサンチアゴも年をとった。マノーリンという少年が彼を慕い、様々な手伝いをしてくれているが、彼がいない時に改めて自身の衰えを感じるシーンが何度も描かれる。
そんな老人サンチアゴと巨大な魚(カジキ)の勝負を主題として描かれたのが本作である。
老人の感性
老人サンチアゴの感性にはなかなか面白いところがある。
トビウオやイルカやカジキを兄弟と呼んだり、舟に泊まった小鳥に対して、「なあ、チビ、たっぷり休んでいけ」と声をかけるなど、一部の生き物に対して強い愛着を持っている様がうかがえる。またその一方で毒を持つクラゲに対しては「淫売」と吐き捨てる。
海に長く出続け、多くの種類の生き物たちと漁の中で関わってきたからこそ好みが生まれ、好き嫌いが生まれたのだろう。そして同時に、好き嫌いに関係なく、海に住むすべての生き物を受け入れるような姿勢でいる老人に対して、人としての深みを感じる。
好き嫌いはあっていい。しかし無闇に傷つけるのではなく、同じ世界に生きていることを受け入れ、共存する。大人な態度であるし、度量が深いと感じる。
他に面白いと思ったところに、右腕に対して力の弱い左腕に対して、「この左手を甘やかしたおれが悪かったんだろうが、こいつだってあれこれ学ぶ機会はあったはずなのだ」という老人のモノローグが印象に残っている。
左手に対しては他にも、「手よ、もう少しの辛抱だ。おまえのためにくってやるぞ」や、「網を放してもいいぞ、手よ。おまえがまともな状態にもどるまで、右手だけでやつをあしらってみせるから」と声をかけるシーンがある。
これらのセリフから思ったことは、老人は自身の手に対してわが子のように接するなあということである。
老人は左腕に対して、子育てに悩む父親のようなこと思ったり、あるいは苦難の時には声に出して励ましたりと、このように弱さを受け入れた上で反省したり元気づけたりする様子にもまた、老人の度量の深さを感じた。
こういった度量の深さはどのようにして生まれるのか?それはおそらく経験の積み重ねが必要で、まだ20代の僕が今すぐに手にいれようと思っても届かないもののように思う。
人生の中で苦難を乗り越え、辛い状況に立ち向かいながらも生きていく。そういった過程を経てこそ、この老人のような度量の深さが生まれるのだろうなと、僕はおもった。
兄弟のように感じても、捕る
老人は漁の最中に様々な海の生き物たちと遭遇する。そこにはイルカや小鳥のように親近感を覚える相手もいれば、クラゲのように嫌いと思う相手もいる。お気に入りと評するトビウオもいれば、カジキやサメだっている。
このように様々な生き物が登場するわけだが、老人はいくらかの海の生物たちに愛着を持ち、時には兄弟と呼んだりしながらも、それらを捕ることに対して大きな抵抗は持ち合わせてはいない。
自分は漁師として、魚を捕るために生まれたきたから仕方がないことだ、と彼は割り切っている。
この割り切りは生きていくうえで非常に重要だと感じる。
なぜなら、生きていくために他の動物や魚の命を頂くことは人間にとって自然なことであるし、それらは食料源としてとても大事なものだからだ。
食料が豊富な現代の先進国においては肉を食べることの是非について議論されたり、肉を食べるべきではないという主張も少なからず見聞きする。
しかし老人の生きている世界はそんな議論が生まれるような状況にない、まだまだ食料に余裕がない世界のようだ。
そんな食環境で肉を食べることや漁をすることに対して疑問を持って、あまつさえ否定までしてしまったら、老人は食べていくことが出来なくなってしまうだろう。
漁をすることに対して疑問を持ってしまえば人生が立ち行かなくなる可能性がある。
それを憂慮してのことかはわからないが、漁の是非、かわいい魚を捕ることの是非に対して深く考えない老人の姿勢は、それもまた1つの処世術であると感じた。
沖に出すぎたんだ
老人とカジキの対峙は熱かった。どちらが勝つのか、読んでいてハラハラしたし、決着の際には感嘆した。
老人は持っている全ての力、知恵、体力を用いて、ついにカジキを捕ることに成功した。その過程は生半可なものではなかった。
3日間に渡る海上の戦いは壮絶で、人はここまで出来るのかと思わされた。
特にカジキを掛けた網を支えながら器用にマグロを捌き、それを食べることで精力をつけるシーンでは、老人の逞しさと、自然の中でも生き抜くことのできる強さのようなものを感じた。
しかし自然とは容赦をしてくれないものである。サメが幾度も襲来してくるのを見て、そう思った。
カジキのほとんど全てを食べられてしまった老人は残念がりながら、此度の出来事をこう顧みる、「おれは何にやられたのか。そんなものはない。ただ沖に出すぎたんだ」。
『沖に出すぎた』という言葉には2つの解釈があると思った。1つは純然に、沖に行き過ぎた結果、長い帰り道でサメにやられてしまったという解釈。
もう1つは、自身の力の及ばない領域を『沖』と表現し、そこに足を突っ込んでしまったのがいけなかったという解釈。
どちらの解釈にしても事実を表している。小舟で遠くに行き過ぎたせいで、帰りにカジキを守りきれなかった。自身の力が及ばないところ(沖合)まで行ってしまったせいで、自然に牙を剥かれた。どちらも事実だ。
年をとったサンチアゴではなく、若いころのサンチアゴだったら、カジキを無事に連れ帰ることができただろうか?
おそらくそれもまた難しいことだっただろう。個人の力量の問題ではなく、装備や乗組員の数が結果を変えるような、そんな類のものだろうから。
だが、自然はそんなことをお構い無しに、たとえ丸腰の個人に対してもその猛威を振るってくる。
一人の人間でも、あきらめない心と逞しさで大きな困難をも乗り越えることができる。
しかし、強大な自然を前に、ろくな装備を持たない個人は無力だ。人が持ちうる力をすべて発揮しても、越えられない試練を、時に自然はもたらす。
老人の力強さに憧れを抱きながらも、それでも届かない領域というのも確かにあるよなと思った。
良くも悪くも、人間の限界が描かれていた。
おわりに
「人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない」
これはヨルシカのn-bunaがピックアップした、作中の老人のセリフである。
このセリフに、老人の強さの源が詰まっているように思う。
苦難に立っても老人は諦めない。手が攣ろうが、目が霞もうが、サメに襲われようが、前を向いて戦い続ける。
その姿は人間の生に向かう強さであり、ある種の人間の強さの理想形の1つなのかもしれない。
ではその強さを手に入れるにはどうしたらいいのか?
これも度量の深さと一緒で、人生の中で辛いことや困難を乗り越えた経験の積み重ねで滲み出てくるものなのかもしれない。
人生は若いうちが最高期で、年を取ることは嫌なこと、というような価値観が世間的にある程度あると思うし、個人的にもそういう思いが少なからずある。
しかし、サンチアゴのような、深い度量を持ちつつ、自然の中で生き抜いていく強さを持ったかっこいい人間になれるのなら、年を重ねるのも悪いことばかりではないなと思える。