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小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の感想と考察

先日フィリップ・K・ディックの小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読みました。映画『ブレードランナー』の原作にもなっている本作。なんだかんだで手に取っていなかったのですが、いつか読もうという想いが先日達せられたので、感想をぼちぼち書いていこうと思います。

 

 

本作のあらすじ

核戦争の影響で放射能が蔓延し、生き物が非常に住みにくくなった地球。

他の星への人類の移住が進む中、主人公のリックは地球に住み続けている。リックの職業は法を犯す一部のアンドロイドを処理する賞金稼ぎ。

彼が6体のアンドロイドの処理を命じられ、それらを処理していく行程が本作で描かれている。

 

この世界の人々の価値観。生き物への憧憬

この世界に生きる人々は皆少なからず孤独を抱えているようだ。移住と人口減少で人の減った街。アパートには空き室が多い。地域によっては数千人の許容量のある建物にたった一人しか住んでいなかったりする。

この孤独は想像もできない。大きなマンションに自分一人しか居住者がいない。周りの建物も同じような人口密度。そんな状況は現代の発展した都市では起こりえないことである。SFらしい、読者の想像力を駆り立てる世界観だ。

この世界の住人にさらに孤独感を与える要素として、生き物の稀少化がある。核戦争とそれがもたらした環境への影響により、生き物のほとんどが絶滅してしまった。この世界において野生の生き物を発見することは非常に稀なことである。そんな世界だからこそ、人々にとって生き物を保持することが一種のステータスになっていた。

また、生き物の所持は単にステータスというだけでなく、孤独を癒してくれる効果が期待できるので、人々にとっていいものである。

生物はいいものであるという意見に対して、ペットという肩書の家族と暮らしたことのある人なら必ず同意してくれるだろう。

人の少ない世界では孤独を感じやすい。それを和らげるために何らかの生き物と共に暮らしたいと願う。それはごく自然な欲求だ。

だからこそリックは羊を飼ったり、山羊を買ったりしたのだ。山羊の件は気の毒だったが。

 

生殖能力を失った者はなぜ蔑視されるのか

本作において、放射能の影響で生殖能力を失った者は特殊者と呼ばれ、軽蔑の目で見られる。また、特殊者のうちにはピンボケと呼ばれる知能に問題のある者も多くいる。

彼らはなぜ蔑視されるのか?

自分の考える理由はシンプルで、それは『彼らは人口増加の役に立たないから』だと考える。

人口の著しく減った世界。大きなビルにたった一人しか入居者がいないような世界。そこで人々が求めるものは人である。次点で生き物がくるだろうが、それは今は置いておく。

なぜ人を求めるかという理由は明確だ。孤独が辛いからである。ホモサピエンスは集団で生きる種族だから、孤独に対してストレスを感じる本能を持ち合わせいるのだろう。

さて、人を増やすためには生殖行為を行い、妊娠、出産の過程を経なければならない。それはこの世界においても同様のようだ。

そうなると生殖能力のない特殊者は人を増やせない存在であり、またピンボケも多いことから、人類の発展に貢献ができないお荷物的存在とみなされているようだ。

生殖能力がない者が強く蔑視されてしまう世界。それは人の少ない状況が生み出した孤独と不安感が生み出したものだろう。

ここでも前項と同じように孤独から始まる感情の動きというものを見受けることが出来る。

 

共感性とアンドロイド

本作において僕の印象に残ったシーンを1つ挙げるならば、プリスが蜘蛛の脚を無慈悲に切り落としていくシーンである。

このシーンでは蜘蛛に対して同情を寄せるイジドア、蜘蛛の痛みなどを考慮せずにハサミを淡々と動かすプリスと、人間とアンドロイドの生き物に対する感覚が対照的に描かれている。

人間的である存在の象徴としてイジドアを描写し、アンドロイド的である存在の象徴としてプリスを描いているのがこのシーンだと思う。

共感性を持つ人間。無慈悲なアンドロイド。この対比が綺麗に見えるシーンであった。

 

共感性といえば、マーサーとバスター・フレンドリーの二人の話は外せないだろう。

共感ボックスというものが本作に登場する。この装置は自宅にいながらでも遠隔地の他者と心理感覚を共有することができるというもので、この装置を用いている者の中で最も有名なのがマーサーである。マーサーが坂を上って石をぶつけられながらも登頂する体験を大勢で共有し、その体験を通じて強い共感をする(融合体験を行う)者たちがマーサー教徒と呼ばれている。またマーサー教徒はマーサーを神格視しているようだ。

その融合体験とマーサーに対して懐疑的な目を持ち、このマーサーの体験はイカサマであると主張するのがテレビのスターであるバスターである。

バスターは毎日24時間常に何らかの番組に出演をし続けている超人気者であるが、その彼の番組で、ある重大な発表がなされる。マーサーの体験とされている登坂は実は作られた映像で、実際に彼が辛い思いをしているわけではない。彼の体験は偽物だという告発である。

この告発を聞いたアームガードというアンドロイドの主張が、非常にアンドロイド的であると感じた。その主張の内容とは、アンドロイドには出来ない『感情移入』という行為が人間には出来ると証明するために、人間にはマーサー教が必要だった、というものである。

ネクサス6型という最新のタイプのアンドロイドである彼女らはほとんど人間と違いがない。賞金稼ぎであるフィル・レッシュが同僚として働いていても彼らをアンドロイドと疑わなかった程である。

では人間とアンドロイドの差はなにか?それは共感性を持つか否かである。

もしその共感性が『イカサマ』だとしたら、人間もアンドロイドも差はないと言えるのではないか?

そういった考えから共感性の象徴とも言えるマーサーを否定した図に見えた。

「共感性なんてあやうく、存在も不確かなもの。そんなものが人間とアンドロイドを分けるものだなんて信じられない。マーサーの映像はまやかしだった。そんなものを拠り所にしていたあなたたちは、本当に私たちよりも優れているの?」

アンドロイドのそんな訴えかけが秘められたエピソードであると感じた。

 

フィル・レッシュとルーバ・ラフト

前項で挙げた人間とアンドロイドの対照と逆の対照がある。

上記の内容では人間的な人間のイジドアと、アンドロイド的なアンドロイドであるプリスに着眼した。

今回はアンドロイド的な人間であるレッシュと、人間的なアンドロイドであるプリスの対比を見ていく。

レッシュはリックと同じように賞金稼ぎである。しかしレッシュにはリックと大きく異なる点がある。それはアンドロイドに対する共感性や同情心が皆無であるというところだ。リックはルーバと接する中でアンドロイドに対する同情心が芽生えていったが、レッシュはそうした反応は起こさなかった。それどころかルーバがアンドロイドであると分かると、彼女を『それ』と呼んでいた。このことからも、レッシュがアンドロイドを単なる『物』として見ていることがよくわかる。

そしてルーバの方はどんなアンドロイドかというと、彼女はオペラ歌手である。リックいわく、彼女は歌手として素晴らしい実力を持っているようだ。また後述に引用している彼女の言葉によると、彼女は人間に対して強い憧れを持っていたようだ。

この二人の対照性が見えるシーンは、レッシュがルーバを処理するシーンだ。処理される直前のルーバのセリフを以下に引用する。

(自分に画集を買ってくれたリックに対して)「あなたってとっても優しい」「人間たちにはとても奇妙でいじらしい何かがあるのね。」

(レッシュの方を見ながら)「彼だったら夢にも思いつかないことだわ。100万年かかってもね」

「わたしはアンドロイドが大嫌い。火星からこっちへやってきてずっと、わたしの生活は人間をそっくり真似ることにつきていたわ。もし人間と同じ思考や衝動をわたしが持っていたら、どんなふうに行動するかーーそれをなぞっていたわ。つまりわたしの目により優秀な映ったものを模倣したわけね。」

このセリフから読み取れることは2つある。

1つはルーバが人間のもつ共感性、思いやりの心に対して憧れて、自分もそういった感覚を理解したいという欲求だ。

もう1つはレッシュに対する冷ややかな思いである。リックはアンドロイドにも同情心を持つ慈悲深さをここでは見せていた。それに対してルーバは人間だけが持つ共感性の力を感じ、憧れを強くした。一方のレッシュの態度からはそういった共感性を示すような素振りは見られなかった。ガーランドと通じていたルーバはレッシュが人間だと知っていた可能性が高い。そのうえで、人間でありながらも共感性を持ち合わせないレッシュを見て軽蔑したのだろう。おそらくは嫉妬もあるのかもしれない。「人間であるのに、あなたは……」といった具合に。

 

引用のセリフの後に少々のやり取りを挟み、レッシュは冷酷にルーバを処理した。

このシーンでは冷酷に仕事をするレッシュがアンドロイド的な、機械的な存在に見えたし、人間に憧れるルーバの姿は人間的に見えた。

前項の蜘蛛のシーン程は明快なものとは感じなかったが、本項で取り上げたシーンもまた、人間性とアンドロイド性の対比を描いたシーンと考えられるだろう。

 

慈悲的な共感は、相手と同じ種類の痛みを知らないとできない

発達したアンドロイドがいる世界で、人間性とは何か、アンドロイドと人間の違いとは何かを問う、それがこの作品だと思う。

作品を読み終えて、自分もそのことを考えてみた。

ネクサス6型のように、非常に人間に近しい容姿と能力を持つアンドロイドがいる社会を想像してみるーーー

 

まず、人間とアンドロイドの見分けはつかないんだろうなあ、と思う。

アンドロイドがどこまで人間のような感情表現を真似できるのかは不明瞭な部分があるが、それでも高精度で、違和感のないリアクションや行動をするだろう。このことは先にも書いたフィル・レッシュの件から伺い知れる。

見た目で見分けがつかない以上、人間とアンドロイドの判別が誰でもできるような仕組みをアンドロイドに搭載する必要がある。例えば、体の一部にシリアルナンバーやブランドロゴなどの刻印を入れることや、人がカメラを向けた際にその対象がアンドロイドか否かを表示できるアプリケーションを開発・実装することで、この問題は解決できる。

しかし本作のアンドロイドにはそういった識別のための機能がないので見分けることができない。

そういった状態でのアンドロイドの運用は非常に大きな問題ではあるが、まあそれは本項の主旨からそれるので今は置いておこう。

表層の部分では違いがないということは明らかだが、では内面はどうだろう?我々のような情動がアンドロイドにはあるのか?

答えはYesだと思う。

ルーバ・ラフトのように何かに憧れる心は人にも当たり前に存在する。憧れる対象に近づけずにもどかしさを感じる心も人間的である。プリスが蜘蛛に対して行ったことは好奇心が起こした行動であり、レイチェルが山羊を屠ったのは対抗心が動機かもしれない。

合理性という視点を考慮した際に、ルーバの行動はリックの同情を引こうとしたものである可能性があるので勘定しないでおくが、プリスとレイチェルの行動には合理性がなく、内的動機によって行われたものとしか自分には思えない。この事実から、人間に近しい感情をアンドロイドが持っていると思う。

 

そして肝心の共感性だが、このことに関して答えを出すのはなかなか難しい。

ネクサス6型のアンドロイドが、人が痛みを感じる場面で人と同じように苦しみやつらさを感じるように作られているなら、共感性を獲得できるかもしれないが、そういった作りにはなっていなさそうだ。

同じ痛みを感じることができないのであれば、相手の痛みはわからない。自分が感じた痛みの記憶を辿り、それを今相手が感じている痛みと照らし合わせて、相手の心のつらさを思うこと、それが慈悲的な共感だと思う。

本作で描かれるアンドロイドは肉体的にも精神的にも、人間と同じように痛みを感じるようにはできていないように見えた。痛みの経験が無ければ当然、慈悲的な共感は生まれない。なのでアンドロイドは慈悲的な共感ができない。それが現状での、この世界観のアンドロイドに対する僕の考えだ。

 

おわりに

この先の流れとして、AIが進化していくことは間違いない。しかし、AIに関する研究が進んでいって、技術的に可能な進化先が増えていったとしても、それが実装されるかは不明瞭だ。

例えば、機械学習を用いて、センサーと学習データに基づいて人の感情を高精度で判定できるソフトウェア(AI)ができたとする。このソフトウェアは嘘発見器のように使えるだろうし、人型のハードウェアに搭載して、人と会話をするアンドロイドをつくるために活用されるかもしれないし、他にも様々な用途があるだろう。

こういった技術は利便性をもたらす可能性があると同時に、人権侵害ともとれる挙動も可能にしてしまう。例えば、感情の読み取りはプライバシーの侵害かもしれない。

プロダクトとして、そういった要素を持つものが世に出るには越えなくてはならない壁がある。多種多様な議論も当然起こるだろうし、社会実装のタイミングや可否は国によって違いが出るだろう。

というように、AI技術の発達が著しい現代に生きる僕にとっては、『人間のようなアンドロイドをつくれるか?』よりも、『人間のようなアンドロイドの作成が技術的に可能になったとして、それらが一般社会で活躍するためのハードルはなんだろう?』ということの方が考えることが多いように思う。

本作に出てくるような、人間と間違えてしまう程のアンドロイドが出来る日が来るかはわからない。が、本作が発行された頃と比べたら、その完成への道のりは随分と具体性を増していることだろう。

夢を描く時代と、その夢の実現性が高まった中で様々な壁を強く意識する時代。

1968年から現在までの50年余りで世の中はとてつもなく変わった。次の50年の変化も大きいだろう。

科学技術の発展が、人々の生活をよくしていってほしいし、ドラえもんのようなロボットの友人がいる未来がいずれ訪れてくれたらいいなあと思う。